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やどかり

昼のお星は目に見えぬ。見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。(金子みすゞ)

梅を愛で、桜に追われる

今年は、ここ数年でダントツの梅・桜摂取量を記録。わかったことがひとつある。

梅は愛でるもの、桜は追われるもの。

私にとって、梅は春なんです。
梅を見ているようで、そこに春の訪れを見つけているわけです。
「ああもう春なんだなあ、いい季節だなあ」って感じて喜ぶ。

もっと比喩的に言えば、春っていう主人のお使いとしてきてるのが梅の花っていう感じ。その使いの者がいい香りで美しくって愛でるけれど、ほんとはそのうしろの春を讃えてる。図式化すると、梅<人間<春っていう感じです。

だがしかし、桜は違う。完全に桜がメイン。
「桜が咲いたから春だねえ」じゃなくって「桜が咲いたから花見せねば!」になる。桜は感慨に浸らせてくれないね。人間が振り回されてばっかりだ。「いつ咲く?いつ見る?」「もう咲いてるー!」「今満開!明日雨!つまり花見は今日しかない!」完全に、人間<春<<<<桜 だ。桜の都合に人間が合わせる。ああなんと慌ただしくそわそわすることよ。結局古い歌のとおりでした。

世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

 

うめざわ

※京都・平野神社で私史上最高の桜を見た。桜の森だった。

逃げてるだけの修行LOVER

断食とか座禅とか荒行とかって聞くとうれしくなるタイプっているじゃないですか。修行好きっていうんですかね、わざわざ遠くの寺とかに出かけてわざわざ断食して帰ってくるとか、1週間黙ったままの瞑想合宿みたいなのに行きたくてうずうずしちゃうとか。まあ私なんですが。

修行!ストイック!痛い!けど気持ちいい!みたいなマゾヒスティックな喜びと、私はこれで生まれ変わるのだわっはっはっていう誇大妄想的な期待があるから、私の場合は修行が気になって仕方なかったのだ。

けどね、けどね、気づいてしまったの。私が心奪われてるような非日常系の修行って、ただの現実逃避だということに!

いやあさあ、修行に恋い焦がれる理由ってね、
・修行はきつい。
・きついことをすれば私は変わる。
・修行をすれば私は変わる!
っていう三段論法で説明できると思うんだけど、最近わかったのはこれ。

「普段の言動をちょっと変えるほうが、出かける修行よりもよっぽどきつい」

たとえば、断食合宿に3日行くより、3日間自分のうちで節制するほうがきつい。うん、もし変わりたくってきついことするんならば、日常生活で自分を律するほうがよっぽどきつくて効果的でしょ。でも、普段は難しくってできないから、遠くにでかけてわざわざ修行するんでしょう。てことはつまり、出かけてする修行はイージーモードの修行だよねえ。

イージーモードだろうがなんだろうが修行したいんならお好きにどうぞだけれども、負荷は限りなく軽いものだと思っておかないと。そっちのほうが真の修行で、力がつく、なんてゆめゆめ思わないことね。

結局のところ、本番は生活だ。今の環境でじたばたするほうがよっぽど自分のためになる。いつも叱ってくる人に対してちょっと歯向かってみるとか、理不尽な規則に抵抗して変えようとしてみるとか、満員電車で気持ちよく過ごせるようにするとか。ほら、こっちのほうがきつそうだー。よっぽど修行じゃーん。なーんだー。さあ修行するぞ修行するぞ修行するぞ!

うめざわ

※「包みみたらし」にいたく感動してたけど、千鳥屋に「みたらし小餅」っていう商品が昔からあってだな

顔さえなければ誰でも美人

美容院にて、インスタ用の写真を撮られる。斜め後ろから髪だけ、顔は写らない。確認用に見せられた写真を見た私は「え美人!」と思ったんだ。が、そこに私の顔はなし。そうかそうか、綺麗に髪の毛整えてもらって、顔さえなければ私は美人なのね(白目) 

うめざわ

※「首なし美人死体」と類似した事例

みたらしのタレが包まれたってよ

きっとセブンイレブンの棚の前には販促エンジェルみたいなのが飛んでて、

目的なしにやってきた客を見つけては肩に乗って、売りたい商品を囁いてくるんだ。
天使の声を聞いた人は、ふだん買わないようなものをふわりとレジへ持っていってしまう。

ということで、今日のエンジェルおすすめは「包みみたらし」。名前だけでわかるでしょう、これが画期的だっていうこと。見た目はただの平たい白いモチです。けども、このモチにみたらしのタレが入ってるらしいじゃないですか。しかもそれを手づかみで食べるわけですよ。夢じゃないですか。

あのね、みたらし団子のなにが悲しいって、串をもつ手がタレでべとべとになることと、タレがパックについちゃうこと、ですよね。両方に共通することは? はい、そうです。タレが!無駄に!なる! ここです。こんな悲しいことがありますか。あの美味なるタレが、ウエットティッシュでぬぐわれるべきたんなるベトベトに降格してしまうんですよ。ああなんたる悲劇。
だがしかし、タレをモチで包むことによって、その悲劇が回避できるわけです。讃えられるべき発明。しかもそのことによって、モチを手づかみで食べられるんです(2回目) 食べものは手づかみで食べるのがいちばんおいしいです。そうでしょう。ナイフとフォークじゃなくって、お箸でもなくって、爪楊枝でも串でもなくて、手づかみがいちばんおいしいです。異論は認めない。

ということで、セブンイレブンの包みみたらしを食べました。満足。

 

うめざわ

※さいきん書いてること、食べ物か桜か怒ってることかの3択になってきた。

※あ、お手紙企画に協力してくださったみなさま、発送は完了しております。不着の場合はお知らせくださいませ。

料理の魔術性

たとえば、料理上手なおばちゃんが2種類のカレーを作ってくれたとしてね。ひとつは、iPhoneクックパッド見ながら作ったもの。もうひとつは、レシピはなにも見ないでてきとうに作ったもの。

目の前にお皿がふたつ。さあどうぞって出されたときに、どっち選びます? 私はレシピ見ないで作ったほうを選ぶと思う。そっちのほうが価値ある気がしません?

なんだろう。料理うまい人は、レシピとか見ないでおいしいもんが作れる信仰みたいなものがある。あらゆる分野において、道具とか外部のものに頼っているうちはアマ、すべて体感でわかるのがプロ、みたいな決めつけももってるかな。たとえばパン屋さんとかが「気温とか湿度によって、水の量変えてますね。え?あ、いや測ったりとかしないです、感覚で」って言ってたらかっこいいじゃないですか。やっぱりプロだなあって思うじゃないですか。

うーん、私たちは魔法を見たいのかな。過程はぜんぜんわからないけれど、なんかすごいもんが出てくるとゾクゾクする。自分には想像もできないし、ましてや再現なんてできないようなプロセスを経て生みだされたものは、神秘性を帯びる。そういうことなんだろうか。

あー、そうかも。最初に書いたおばちゃんが、iPhoneじゃなくてボロッボロの古文書を眺めてカレー鍋をぐるぐるまぜてたらそっち選ぶわ。

 

うめざわ

※天才が奇人であってほしいのもおんなじことだなー

今日はおやすみ

本日の夕飯。前に大量に作ったこのミートソースですぱげっちー。

簡単☆ミートソース by ニャミ姉 [クックパッド] 簡単おいしいみんなのレシピが264万品 このレシピほんとうにおいしいと思うぜ。

 

うめざわ

 

桜のトンネル、春の雨

桜のトンネル × 霧雨の土曜日 × 花見客は私だけ。霧がかった道で、満開の桜。見る人も誰もいない。そこへ着くと、あれここは三途の川なのかしら、この奥は極楽浄土なのかしらと何処かへ吸い込まれそうな、湿度の高い濃密な風情がありました。くらくらした。

 

うめざわ