泣きながら炊くごはん
たまねぎのせいではなく、泣きながら台所に立つことがある。
何もかもに行き詰まった気がしてどうしようもないときは、
とりあえずご飯を炊く。
「幸福は、ごはんが炊かれる場所にある」っていう有名なコピーがあるけど、ほんとうにそうだと思うわけ。
なんかあってもさ、炊きたての白いごはんみたら、
状況は何も変わらなくてもとりあえず元気になれる。
お米を2合分すくって、研いで、水に浸して、
さいきんお気に入りの土鍋にいれて、火にかけて、
今日は火加減がすこし強かったみたいで、かすかに焦げた匂いがしたから、
すぐ火を止めて、蒸らす。
土鍋をコンロからはずしているあいだに、お味噌汁と適当なおかずをつくる。
クックパッドとだしの素を駆使すれば、それなりのもんは作れる。
蒸らし終わったら、右手にミトンをはめて、黒くて重くて熱い上ぶたをとって、吹きこぼれたお湯に気をつけながら、なかのふたもとる。
そしたら、真っ白い湯気とごはんが出てくる。いちばんうれしい瞬間だなあ。
しゃもじを濡らして、こんどは左手にミトンをつけて、ごはんをまぜる。
底のほうにできたお焦げが、ぺりぺりとうまくはがせた日はいい日。
これまた気に入っているお茶碗にごはんをよそって、お味噌汁もついで、おかず(今日は、大根とこんにゃくの炒め煮と塩昆布まぶしただけの大豆の水煮)もよそって、食べる。
おいしい。
ひとりで、とても静かでさみしいけれど、わびしくはない。
とりあえずおなかを満足させておけば、まあ、そこまで深刻な事態にはならない。
食後にコーヒーでも淹れる余裕があれば、もう心配なし。
一人暮らしも5年目になったけど、
じぶんで作らないと食べるものがないってことに愕然とする日があることは変わらない。
なんか買ってきたらいい、ってそう思ったこともあったけど、
つらいときに蛍光灯のまぶしすぎる店にいって、機械で作られたおにぎりを買って、それをひとりで食べるほうが私にとっては悲しい。
だから、しんどいときほど、意地で料理をする。
食べることと生きることは、たぶんほんとうに密接しているものだから、
自分で自分に適切な食べ物を与えられているうちは大丈夫なのだよ、人間は。
たぶんだけど。
ああ、こういう話は、吉本ばななの『キッチン』に近いかもしれないですね。
あれはよいですね、ほんとに。
(私は、いままで読んだ小説のなかで、「キッチン」の続編の「満月」が最高に好きだ。カツ丼を届けるあのシーンに勝るものはまだ知らない。)
うめざわ
ていうかキッチン読んだとき、ばななさんの両親はとっくに亡くなっているものだと思っていたから、さいきんご両親が亡くなったことを知ってひどく驚いたよ。