見えなくても、あるかもしれない
見えないものを信じる人が私は好きだ。
現代において非科学的とされるものであっても、
もしかしたらありうるかもねって、
その程度でいいから思える人が私は好きだ。
いるからさあ。
非科学的だと言われるものを、怪しがってはなから取り合わない人は。
同時に、そういうものを気にする人も軽蔑する人。
なんでもいいよ、
幽霊でもスピリチュアル系でも占いでもオカルト的なものでも、なんでもいい。
ないかもしれないけど、
あるかもしれないじゃん。
「あるってことが証明されてないこと=ない」ことじゃないぜ。
科学的に存在が認められているものしか信じないって豪語する人もいるんだけどさあ、
人間がこの世界のことをぜんぶわかるとでも思っているのかね。
縁だって運だって、見えないけど、あると思うのだけどなあ。
要は、人間の生きるこの世界のことは、人間の理性ですべてわかるはずだって考え方が好きじゃなくて、
特に、理性的とされないものを信じたりしている人を軽蔑する人が大嫌いいなのだ。
人は何を信じてもいいと思うし、
それによって馬鹿にされるなんてことはあっちゃいけないと思う。
多くの人には空気中のチリは見えないけど、それが見えちゃう人もたまにいるんだってば。
そういう人に、ほらこの空気にはチリがたくさんあるよって言われてもさ、たいてい見えないから何言ってんのこいつってなるんだけど。
見える人にとっては、見えるのが真実だし、
見えない人にとっては、見えないのが真実だ。
なんだけど、「この人がそれだけ言うんなら、もしかしたらチリだらけなのかも」って自分の世界から一歩出てみるってのがわりと大切なことなんじゃないかと思うわけ。
うめざわ
※ただの水でも、薬だと信じることによってなんらかの効果があるなら、それはその人にとって特効薬なんだってば。プラシーボ効果万歳。