やどかり

昼のお星は目に見えぬ。見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。(金子みすゞ)

感受性はすり傷

んーと、感受性ってのは、すり傷だと思うのよね。

感受性が豊かってさあ、すり傷が多いだけで。たぶん。

豊かだからいいってわけじゃあ、ぜったいないのよねえ。

 

感受性っていうものを、

ものごとに心を動かされる度合って考えるとだな、

まあ私は強いらしいのだ、感受性。

 

他の人から見たら、考えすぎだよってとこまで勝手に考えて、

勝手につらくなることが多いのだ。

たとえば、自分がへこんでるときとかは、道ばたでチラシ配ってる人見ると、

すっごいつらくなるのよね。

 

自分がチラシ配りしたときのことを思い出して、

無視されまくって心折れるんだよなって思うと、

素通りできないんだけど、チラシはいらないんだけども、

無視はできないぞうぐぐ、みたいなさあ。

 

要は考えすぎなんだけど、一瞬でそう思っちゃうからさあ、

考えすぎだから考えんのやめなよ、とか言われたところで、

無理でさあ。

 

感覚的にはね、

私はつねにどこかしら擦りむいた状態で生きてるんだなあと思うわけだ。

膝すりむいてるから、たいがいの人が平気で入れるお風呂が痛かったり、

指のささくれ、むしっちゃったばっかりだから、手洗うだけでヒリヒリしたりさあ。

 

でもそれを「考えすぎだ!」っていう一言で片付けられると、

違う!って反発したくなるわけさ。

 

たとえば、一緒に銭湯入ってもさ、

熱くて、アチアチいいながら、そろそろ足をつける人もいればさあ、

きもちー!ってざばって入っちゃう人もいるじゃない。

同じ40度のお湯でもさ、感覚はぜんぜん違うじゃない。

 

ざばん!って入れちゃう人がさ、熱いの苦手な人に、

「こんなん40度なんだから入れるやろ!」って説得するのは違うよねえ。

 

たとえば38度のぬるいお風呂にそろそろ入る人を見たら、

不自然に思うかもしれないけど、

さっき転んでスネにすり傷作ってて、痛いのかもしれないじゃない。

でも、すり傷が見えないからってさ、

へんなのーって笑ったり、ぬるいから早くおいでよ!って急かすのはなあ…って

思うわけよ。

熱いし痛いんだよ、その人にとってはさあ。

 

なんか、息苦しいね。

つらいっていうと、考えすぎだって言われるのはさあ。

すり傷が多くてヒリヒリするんじゃ!

あんたがわかんなくても痛いんじゃ!

 

人のすり傷がどこにどれくらいあるかなんて、ぜったいわかんないんだからさ、

痛がってたら痛いね、って認めてあげようよって思う。

 

その人が痛いって言ってるんだから、

そんなん痛くないやろ?って言うのは違うでしょう。

 

他人のすり傷は見えなくても、

痛がってる姿は見えるんだからさあ、

 

なんで痛いのかぜんっぜん理解できなくてもさあ、

見たもん受け入れるしかなくないか?って思う。

 

結局、人は。見たものをそのまんま受け入れるんじゃなくて、

自分の頭のなかにある想定に見たものをあてはめるだけで、

目の前のものを無視することが非常に多い。

 

うめざわ

※技術を褒める場合、「力が抜けてる」ってのが万能の褒め言葉なんじゃないかと思う今日この頃。