やどかり

昼のお星は目に見えぬ。見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。(金子みすゞ)

1万円札の不毛な努力

たぶん私たちは、1万円札にアイロンかけて2万円にしようとか、そういう不毛なことをしているんだと思う。

 

人間の価値のお話。

 

あのねあのね、私は人間はみーんなそろって1万円札だと思うわけ!

なかには、姿勢がよくてシワもなくて、ご祝儀とかにつかわれるやつもいれば、

よぼよぼよれよれで、両替するとき真っ先にATMにつっこまれちゃうやつもいるんだけど、それでもみんな1万円なわけだ。

昭和40年製だろうが、平成5年製だろうが、そろって1万円だ。

 

エルメスの皮の長財布に入ってようが、

100均の両面テープみたいなのでペリってふたするビニールの財布に入ってようが、

1万円は1万円だだ。

 

エルメスの財布に入る1万円が優れてる1万円かって言われたら、そうじゃないでしょう。

なんとなく革の長財布に入ってる1万円のほうが立派な気がするんだけど、

それは幻想。

 

たしかにご祝儀袋とかに選ばれて入る見た目のよい1万円もいるけど、

彼らだって2万円なわけじゃない。ただの1万円。

 

人もたぶんおんなじで。 

 

1万円札がさあ、

「いま自分は100均のビニールの財布に入っているからだめな1万円なんだ。

まわりの1万円より価値がないんだ」

とかって思うのは、違うじゃない。

これは間違った劣等感。

 

「おれはエルメスの長財布出身だから、えらい1万円だ」

これも間違った優越感。

 

間違った価値判断によって生まれる努力は、間違った努力。

「ぼくはいまよれよれだから、頑張って長財布に入れるように、きれいなピン札になる!」

意味のない努力。そんなんしたところで2万円にはならん。

 

「私、右半分がちぎれてるから、5千円の価値しかないんだ」

見当はずれな悩み。君もただの1万円だ。

 

人の悩みって、こういう間違った認識によるものが大半だと思うわけ。

 

私は、人間は、どんな人でも、幼稚園児だろうが大企業の重役だろうが、日雇い労働者だろうが、ニートだろうがひきこもりだろうが、障害があろうがなかろうが、まったくの等価値だと思っています。同じ1万円。

 

その1万円札の、製造年とか印刷のよしあしとか、シワのあるなしとか、そういうものが違うのは確かだけど、それがお金の価値として反映されるかといったら違う。

札束として包まれててる1万円札は、コンビニのレジの1万円札と等価だ。

どんな財布に入ってようが、どんな見た目だろうが、どんな役割だろうが、ぜんぶおんなじ1万円。

 

自分は、どこまでいっても他の1万円札と寸分たがわぬ1万円。

これはねえ、救いだけれども、絶望でもあるね。

 

うめざわ

※ちなみに:1万円札の寿命は4~5年、5千円札・1千円札の寿命は1~2年らしいよ。(日本銀行HPより)