食べることは、世界を信頼することだ
この前の休み、友人たちに来てもらって、私が作ったごはんをみんなで食べたんだ。
自分が作ったきんぴらとか卵焼きとかを、ほんとにうれしそうにばくばく食べてる姿を見ると、「みんなそんなに私を信じていいのっ!ねえ!」って思ってしまったよ。
だって、そのきんぴら、じつはGがうようよする不衛生なところで作られたものかもよ? くさりかけたにんじん使ったかもよ? 私は実は悪い魔女で、毒盛ったかもよ?見えないんだからわからないじゃない。
でも、そんなためらいをぜんぜん見せずにひたすら食べてくれると、勝手に無条件の信頼を感じてしまって、大げさだけど感動した。いやほんとに。
この感情は、飼ってるねこが、お腹べろんて出して私のひざの上で寝始めたときとおんなじやつ。ねえ君、今私がぐって首締めたら死ぬよ!? ねえ、そんな安心しきっていいの!? て、安心しきってくれたことに喜びつつ、でもそんなに誰かを信じたら死んじゃうかもよ!って危なく思って、でもやっぱりうれしい感じ。
だって、食べるって、ほんとに無防備な行為だもの。外にあるものを、自分のなかに取り込むんだから。自分に溶けこませるんだから。自分が作り変わるくらい、無防備なことよ。それを他人にゆだねるって、基本的な信頼感がないとできないと思った。料理を作った人個人への信頼というよりか、世界は私に悪いことはするはずない!みたいなもっと大きな信頼感。そんなものがないとおいしく食べることすらできないんじゃないかと思ったよ。
うめざわ
※友だちがくれたブラジルのピーナッツ菓子とか、タイのカップ麺とか、海外のおみやげを私はなかなか食べられないのです…ここらへんに自分の閉鎖性を感じる。食べものにおいて、日本以外のものをあんまり信じてないんだわきっと。