やどかり

昼のお星は目に見えぬ。見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。(金子みすゞ)

私じゃないと駄目って思える?

人間60億人いるんだから、
1人の私なんていなくてもいい。
人類に貢献するような優れた人間ならまだしも、はるかにまわりから劣っている自分はいらない。

そう、わりと真剣に思ってたときはあったけど、いまは思うなあ。

私がいなくても別に世界はとてもふつうにまわるけれども、
いたらいたで喜んでくれる人もいるし、
私にしかできないことも実はあるみたいだから、
そこらへんを拠りどころにできれば、
まあ生きててもよいかなと。


これよ、
私にしかできないことがあるっていうのが、欲しかったわけ。
替えのきく存在じゃないんですよっていう実感がとにかく欲しかったのよ。
欲しかった、っていうレベルじゃないな、空気ないと生きられないっていうその切迫感で必要としていた。

私というものが単に数でしかカウントされないところがとにかく嫌で、私が私じゃないとだめな(と私が信じられる)世界で生きていきたかったのね。

そう思ってたら、私がこの石橋っていう街をやたら気に入っているのは、当然だよなあと思ったわけ。だって、ここにいると、私は個人名で認識されている気がするから。

言語化してはっきりわかっていたわけでもないけど、ここにいると私は、通りすがりの一阪大生じゃなくてうめざわという一人の人間として扱ってもらえることが多い。

だって、私は店やってるわけでもないし、どこかの店の上客でもないし、ここにいなきゃいけない理由もないから、石橋のお店やさんたちと私を結ぶのは個人対個人の人間関係でしかないと思ってるのね。
で、4年以上石橋が好きだ好きだと安定して言い続けたら、可愛がってくださる方々はほんとに増えたし、現役学生としては圧倒的に見てきたものが多いから私にしかできないこと私しか知らないこと(と私が勝手に思えること)も増えてきたわけ。

例えば、同じ人に話を聞くのでも、ネットで調べて石橋のことを知りにきた人が初対面で聞くのと、4年以上ここでふらふらしてて、とくにしゃべる訳でもないけど挨拶はするから顔は知ってる、って人と話すのとではやっぱり違うと私は思えるわけさ。

妄想でもいいから、私じゃなきゃできないことがここにあるかもって思えると、それは私のなかで「私は替えのきく存在じゃない」ってメッセージに変換されて、そう思ったらやっぱりとても楽になるのよ。

昭和的なといったらいいのかしら、田舎的なといったらいいのかしら、人間関係の濃いコミュニティというのは、もちろんいろんなしがらみがあるだろうし(私はよそ者がからそういうマイナス面をあまり感じなくて済む立場にはいるのだけど)、それこそ山口県の放火事件のように閉鎖的な人間関係でものすごくつらい思いをする人もいるのだろうけれど、その一方で私のように救われる人間もいる。
都会的な匿名性のなかで生きて初めて自由になれる人もいるだろうし、密な人間関係のなかで自分の居場所を確保する人もいる。

あらゆる人が、自分が楽に生きられる場所を選んで生きることのできる自由を手にできるようになったらいいな、とほんとに思うや。

うめざわ
※いつリストラされるかわからないっていう流動性の高い不透明な未来しか見えない現代を生き抜くには、自分が代替不可能な存在だと思うことで不安を拭うしかなくて、そういう存在だと思えるフィールドは男女関係が手軽で、だから二人の関係には運命の出逢いが求められる、みたいなことが北村文阿部真大『合コンの社会学』に書いてあった。