自分を、ひとりの友だちとして
自分を遠くから見る、っていつぞやに書いたんだけどその別バージョンの話。(2017/07/10 自分を遠く遠く遠くから見る - やどかり)
これね、普段は自分から自分を距離ゼロで見ているから、その視点をちょっと遠くにずらそうっていうことなんだけども、ずらし方にはいろんな方法がある。このまえ書いたのは年齢をずらすってことだったけど、ほかにも「ひとりの友だちとして自分を見る」っていう方法もある。
自分の不安につぶされそうになったとき、ふっと自分をよこにずらすのだ。それは、「自分の友だちがいまの自分の状況だったとしたら」と考える。そうすると、するんと嫌な気持ちから抜け出る。一気に客観的に見られるようになる。で、だいたいそのときの判断は正しい。
うめざわ
※これねえ、効くよ。
今日もおやすみ
「どうしてヘビの調教師だったことを教えてくれなかったの?」たまたまつけたラジオがしゃべってた。どうしてだろうか。
うめざわ
わかったふりすんじゃねえ
わかったふりすんじゃねえ。「そういう考え方もあるよね」って、わかったような口聞くんじゃねえ。
雑なんだよ、収め方が。段ボールに投げ入れてるだけだろ。なんだかよくわかんないものはぜんぶそこにいれるんだ。中身見たら、ガラクタとか捨てられないもんとかいっぱい入ってる箱にぽいぽい入れるだけ。
それは、「理解した」とか「尊重する」とかとはほど遠いからな。勘違いすんじゃねえ。
その段ボールに入れるくらいなら、「わかりません」「納得できません」「それは変です」って言え。
自分のほうに箱を用意して、そこに相手の言葉を入れたら、「聞く」が完了したと思ってるんだろ。そしてそれが「勝ち」だとも思ってるんだろ。
会話は格闘技じゃあないんだ。「上」に立ったほうが勝ちとか、そんなことじゃあないんだよ。くっそう、腹が立つ。
うめざわ
※おいしいスイカは、おいしいな。なんていうの、おいしくないスイカはウリ科感全開だけど、おいしいスイカはぎゅっと詰まってシャリっと甘くて、ああ甘露……!って思う。これはメロンも同様。
わかってもらえた!と思うとき
満足感のあるコミュニケーションというものは、自分の言いたいことが10を、10以上受け取ってもらうことなわけだ。10あって、1しかキャッチしてもらえないとむなしい。5だとまあ普通。10受け取ってもらえたら、ずいぶん安心する。10を20にしてもらえると感動する。
うめざわ